社長のブログと出張日誌

こちらでは、社長が海外を含めた出張時に出会った風景やエピソード、これまでのよもやま話をご紹介します。

のんびり更新して参りますので、どうぞご期待ください。

Vol 13【ご自宅へ招待】

2015年1月

弊社製品ほのぼのゴマフちゃんの製造確認のために広東省深セン市へ行きました。
この頃、工場従業員は、制服を着用。
工場内も比較的清潔で「安かろう、悪かろう」の中国製品イメージが無くなりました。

製造は、順調でした。
すでに箱詰め作業に入っており、船積み予定日に間に合うとの回答を得ました。

我が社は、できるだけ製造現場へ足を運んで、製品の状態を確認します。
製造者との意思疎通も取れますし、新製品のアイデアをいただくこともあります。

私が安心したところで、アテンドしてくれた友達からご自宅へ招待されました。
家で夕食を食べようと提案されました。
中国人の家へ行くのは、初めてです。

着いたところは、40棟もある高層マンション。
建物は、20階以上です。
プールやジョギングロード、体育館もある、とても立派なマンションでした。

家に上がる時、驚いたこと。
ドアを開けて、またドアがある。
泥棒除けのための二重ドアに改造したそうです。
ほとんどの中国人は、二重ドアに改造すると聞いて驚きました。
日本では、二重ドアの家、ほとんど見かけませんよね。

友達は、仕事を片付けに一旦 会社へ戻りました。
えっ?奥様とふたりきり?と思いましたが、北京からお母様が来られており、2時間ほど筆談を楽しみました。
お母様は、中国語の繁体(古い漢字)もお分かりになるため、スムースな筆談でした。


中国のドラマで女優の胸が出すぎていると、翌週から政府の指示で胸が写らないように画像編集されるなど興味深い話をお聞きしました。
文字で書くと「胸開放」(胸の部分が開きすぎている)なのだそうです。

夕方、いつも夕食をごちそうになる王社長もみえました。
王社長は、こちらのご常連(?)だそうで、マイボトルが置いてありました。

友達も帰宅、たのしい夕食が始まりました。
お料理は、煮物もあり、脂っこくなく、美味しかったです。
私は、王社長の乾杯攻撃を受けました。
王社長のマイボトルは、すぐに無くなりました。
その後、友達が出してくれたビールや梅酒も無くなり、気分良くご自宅を後にしました。

王社長から「今度は、白酒(アルコール度数の高い中国の蒸留酒)で乾杯しよう」と言われました。
その時は、「明白了(わかった)」と言いましたが、翌年 それが成就することになるのです。


Vol 12【新鮮な鶏料理】

16年7月
私は、中国へひとり出張しました。
広東省深セン市で友達と合流し、同じ広東省 東莞市のぬいぐるみ工場へ製品の打合せに行きました。
(深セン市から東莞市は、クルマでおよそ1時間半の距離です)



この工場は、ヨーロッパ向けにぬいぐるみを製造している工場です。
日本との取引は、ほとんどありません。
我が社のように少量で複雑な梱包のオーダーを受けていただき、感謝しています。

打合せが終って、近くにあるパソコン用品やLED電飾ライトを作っている工場を訪問しました。
この工場は、日本メーカーの製品を受託生産していました。


日本の家電店でよく見かける有名メーカーのパッケージがありました。
この一帯の工場では、日本からの依頼で製品を作っている工場がたくさんあるそうです。
いろんなお話を聞けて、有意義な一日でした。

一日が終り、夕食の時間です。
友達が「今日は、新鮮な鶏肉料理を食べに行こう」と言いました。
私は、「新鮮な」の部分が引っかかっていました。

王社長もお誘いして、3人で出かけました。
クルマは、町を離れてどんどん山の中へ。
約1時間走り、たどり着いたのは、一軒の農家。

クルマを降りて、中へ入ると番犬のお出迎え。
その後ろを放し飼いの鶏が群れを成して歩いています。

農家の方に案内されて、母屋の裏手へ行きました。
まるでキャンプ場のようなトタン屋根にテーブル。
夏風が吹くと涼しい。
アウトドア風で開放的でした。


まず、野菜炒めが出て、私と王社長は、ビールで乾杯しました。
心地よい。

しばらくして、別のお客さんが来ました。
鶏肉を買いに来たようです。
農家の方が歩き回る鶏を指さして、どれがいいか聞いているようでした。
お客さんが「これ」と指さした鶏を農家の方がつかんで家の中へ。
農家の方は、毛を剥いで、首がぶらーんとした鶏をお客さんに渡しました。

私は、「新鮮な鶏肉料理」の意味を理解しました。
日本では、見慣れない光景に少し、びっくりしました。

確かに「新鮮な鶏肉料理」でした。
美味しかったです。
とても貴重な体験をしました。

現在、この農家は、廃業され、営業していないそうです。

翌朝、私は、深セン宝安国際空港から上海虹橋国際空港へ移動しました。
以前勤めていた会社の先輩 Kさんを訪問しました。

Kさんから「ほとんど中国を観光していないやろ。今日は、上海を観光しようや」と提案がありました。
観光客が多い上海の外灘を散歩。
洋風な建物が多く、歴史を感じます。

続いて、予園(明代の庭園)に連れて行っていただき、観光客っぽく過ごしました。


思い出に残る出張となりました。
非常感謝!


Vol 11【中国式歓迎】

2016年1月 中国は、お正月(春節)前で賑わっていました。
この時、我が社は、3名で広東省深セン市の工場視察しました。
フラッシュダック アヒルちゃんの製造を確認しました。


安心したところで王(ワン)社長から夕食のお誘いがありました。
王社長は、2010年からの友達です。
弊社と直接のお取引は、ありませんが、いつもひとりで中国へ行く私を歓待してくれます。


今回も深セン市では、有名なお店とのことで、個室を予約してくれました。
そして、王社長が取り出したのが「白酒(バイチュ)」

中国の白酒は、コウリャンやトウモロコシを原料にした蒸留酒です。
アルコール度数50度~80度。
これで乾杯をするのが中国のしきたり(?)なのです。

1980年~1990年頃、中国へ行ったほとんどの日本人が「白酒」の歓迎を受けたと聞きます。
乾杯をすると、飲み干さなければなりません。
3杯も飲むと、酔っ払って倒れた人もいたという・・・そういうお酒です。

そんな話を聞いた私は、長いこと 王社長と白酒の乾杯は、避けてきました。
しかし、王社長から「今日は、お前のために特別な白酒を用意した」と言われては、辞退できませんでした。
念のためアルコール度数を確認、50度!
ウイスキーより、10度高いが、まぁ大丈夫かなぁ、くらいの気持ちでいました。

乾杯!
1杯目 ~ くぁーっと のどが熱くなり、食道から胃袋までの軌道がわかりました。
正直、きつい!

乾杯!
2杯目 ~ 少し慣れてきました。

乾杯!
3杯目 ~ 美味しいかも。(麻痺していたのかも知れません)

私と王社長の乾杯は、続き、すぐにボトル1本が無くなりました。
この時 私には、「やったぁ、義理は、果たした」という、満足感がありました。

しかし、これで話は、終りませんでした。
気をよくした王社長は、「クルマにもう1本ある」と、言い、私のために白酒を取りに行きました。
「これほど、同じペースで白酒を飲んだ日本人は、いない」とたいそうよろこんでくれました。

こちらのアルコール度数 70度・・・来たな!

その後、どうなったのか・・・記憶が無くなりました。
友達にホテルまで送ってもらう時、クルマを汚したそうです。
(もちろん翌朝に聞いた話です)

この白酒、悪酔いしませんでした。
服を着たままベッドに横たわっていた私は、午前8時にすっきり目覚めました。
そういう意味では、良いお酒だと思います。

ちなみにお酒を水や炭酸で割るのは、日本だけの風習とのことです。
それ以来、美味しいお酒は、なるべく割らないでそのまま飲むようになりました。


Vol 10【中国の四川料理店で 身も心も温まる!】

2015年7月
工場を視察した後、王(ワン)社長に四川料理をごちそうになりました。
工場の方など、6名でのにぎやかな食事です。

こちらは、深圳市龍岡区で有名なお店だそうで、たいへん盛況でした。
外で順番待ちをするようなお店です。

生演奏の琴の音が心に響いてきました。

四川料理のお店なので、麻婆豆腐も出てきました。
知っている料理を前にして、少し安心しました。

ある煮込み料理の具材、赤黒いこんにゃくのような食材がありました。
みなさん、おいしそうに食べています。
私もいただきました。

すると、「それ、豚の血だよ」と言われ、「えーっ!」
「中国人は、何でも食べるからね」

正体がわからなければ、何の問題もありません。
知ってしまった以上、頭の中を「豚の血」が駆け巡ります。
いつも以上にビールが進んだ夜でした。

琴の演奏が終りました。
私だけ、拍手。「?」
少し、恥ずかしい思いをしました。

琴の演奏者が私の拍手に気がつき、こちらを見ました。
私は、手を振ってみました。
演奏者も手を振り返してくれました。
とても心温まる夜でした。


Vol 9【知り合ったドイツ人と出雲大社詣で】

2015年10月
社内旅行で出雲大社へ行きました。
今回は、神戸の元上司を訪問する予定があり、クルマで出かけました。
初日、鳥取県の皆生温泉まで行きました。
朝5時に出発し、着いた時には、日が暮れていました。

宿泊は、リーズナブルなゲストハウスです。
こちらには、共同キッチンがありました。
近くのスーパーで食材を買い、共同キッチンで調理しました。
しばらくして、宿泊客のドイツ人ふたりがキッチンへ来ました。
私たちは、カタコトの英語で彼らと話をし、一緒に食事をしました。

彼らは、ドイツのドレスデンから日本へ旅行に来たそうです。
その旅程が日本人には、考えられないものでした。

彼らは、およそ2週間かけて、列車で日本へ来たと言うのです。

東欧の国々を列車で走り、モスクワへ。
モスクワからシベリア鉄道でウラジオストックまで移動。
その距離 実に9,288km。
北海道最北端「宗谷岬」から、鹿児島最南端「佐多岬」までの直線距離 約1,888kmです。
シベリア鉄道は、気が遠くなるような距離、世界一長い路線なのですね。
ウラジオストックからは、国際フェリーで境港に着いたそうです。

彼らは、生きているうちに列車で大陸を横断したかったと言いました。

私たちは、彼らの話を興味深く聞きました。

2時間も話をしていたら、お酒が無くなりました。
私は、彼らに好みのお酒を聞きました。
ひとりは、ビール、もう一人は、ワインが好きとのことでした。
私は、コンビニへ行きました。

それからまた2時間、彼らからいろんな話を聞きました。

私は、明日 出雲大社へ一緒にいかないか?と切り出しました。
彼らは、行ってみたい!と申し出ました。

翌日の朝、私たちは、彼らとクルマで出かけました。
私の狭い国産車は、ドイツ人ふたりには、窮屈だったと思います。
しかし、彼らは、文句ひとつ言わず、旅を楽しんでくれました。

私は、最初に境港海産物卸売りセンターへお連れしました。
彼らは、売場の方から紅ズワイガニを試食に出され、よろこんでいました。

出雲大社には、午前10時頃に到着しました。
彼らは、出雲大社の広い敷地、荘厳な社殿を堪能し、写真を撮っていました。

最後に玉造湯神社へお詣りしました。

午後1時、ランチです。
せっかくなので、お寿司と思いましたが、ドイツ人からランチにお寿司は、いらないと言われました。
寿司は、値段が高いと思ったのでしょう。

私たちは、そば屋へ入りました。
なにを食べようか?
メニューに写真が無い。
ドイツ人のふたりは、困惑していました。

私は、洋風な料理がよかろうと思い、オムライスを注文しました。
しかし、オムライスは、日本の料理だったのです。
ドイツにこのような料理は無いと言われました。

ドイツ人ふたりは、怪訝そうにスプーンで薄焼き卵を上げて、中のケチャップライスを見ていました。
これは、何かと聞かれ、その説明が私の英語力では、困難を極めました。
なんとなく、トマト味のライスと認識してくれました。
彼らは、一口食べ、味が薄かったのか、醤油をかけながら食べていました。

今思えば、「ざるそば」にした方が良かったかもしれません。
気が利かず、申しわけないことをしたと反省しきりです。

すべての日程を終え、私たちは、ドイツ人をゲストハウスにお送りしました。
「欧米か!」と言えるほど、ハグの嵐・・・私たちの国際交流は、成功だったのでしょうか。

彼らは、ゲストハウスの傍らに置かれている自転車 二台を指さし、来週からこれで奈良まで行くと言いました。
「えっ?」もちろん私たちは、かなり驚きました。
彼らの年齢は、50~60代。バイタリティがありますね。

帰りは、飛行機か?と聞いたら、帰りも列車で帰ると言いました。
欧米では、長い休暇が取れて、いいなぁ~と感じました。
のんびり旅で人生を謳歌していますね。

メールアドレスを交換し、彼らから奈良旅行の写真が届きました。

そして、2か月後、ドレスデンから帰国したとお礼のメールもいただきました。
ドイツ人は、律儀ですね。
私は、行ったことが無いドイツという国に思いを馳せました。


Vol 8【退職記念旅行へ行きました】

2011年に定年退職されたお取引先様 担当者と退職記念旅行へ行きました。
一度も中国へ行ったことがない。中国を見てみたいとの希望で、旅行先は、香港・広東省(深セン市・東莞市)・澳門でした。
香港ギフトショー、中国の工場を視察しながらの旅行です。

今回は、旅行会社のパックツアーを利用しました。(フリープラン)
パックツアーは、香港空港からホテルまでの送迎をしてくれるので楽です。

1月10日に成田空港から香港へ出発。
香港に到着し、香港の添乗員と油麻地のホテルへ向かいました。
ホテルから地下鉄とスターフェリーに乗って香港ギフトショーへ行きました。

展示会場をさんざん歩き、暗くなった頃、尖沙咀へ戻りました。
夕食は、広東道に面した「台湾牛肉麺」店。
紹興酒を飲んで楽しい時を過ごしました。

☆ガイドブックにも載っている「台湾牛肉麺」店、今はビルの中に移転しています。

食後、油麻地のホテルまで散歩。
尖沙咀から油麻地、疲れた足には、けっこうハードでした。
観光しながら、1時間くらい歩いたと記憶しています。

お連れしたお取引先様は、映画でもよく見かける路上に貼り出した香港の看板をよろこんでくれました。
「うわーっ、香港を感じます」と。
奥様が他界してから娘さんを育てるのに必死で今まで旅行は、したことがないとのことでした。
よろこんでいただいて、私もしあわせでした。

1月11日
午前中、香港ギフトショーへ行きました。
午後からいよいよ中国広東省深セン市へ。
まったく問題なく「羅湖駅」へ着きました。
現地で友達に合流しました。
そのまま東莞市の工場を視察。

工場の方と夕食を共にしました。
楽しい雰囲気のまま、その夜は、東莞市のホテルに宿泊しました。

1月12日
友達に蛇口港へ送ってもらい、澳門観光へ行きました。
蛇口港のレストランで食事をするつもりでしたが、満席。
みんな食事は終っているのにレストランを出る気配なし。
出航前までレストランで休憩するのだとわかりました。

1時間ほど待って、ジェットフェリーが港に到着。
イミグレーションで出国の印をパスポートに押されて、無事に乗船。
船内でカップラーメンを食べました。

私たちは、澳門のフェリーターミナルから聖ポール寺院跡地まで歩きました。
私は、若かった・・・が、お取引先様は、還暦を過ぎているとは思えない脚力。
なにひとつ文句も言わず、約1時間歩きました。


聖ポール寺院を観光して、まず観光客が歩くことのない裏道を散歩しました。
学習塾帰りの児童が現地のおでん屋で小腹を満たしていました。
まったく想定していなかった仏教寺院に出くわし、お参りしました。
立派な仏像がありました。

途中で道に迷い、警官に道を聞くも、ポルトガル語で話され、チンプンカンプンでした。
私たちは、グランドリスボアホテルを目印に歩きました。

グランドリスボアホテルに到着、私たちは、スロットマシンに挑戦しました。
お取引先様は、真剣にスロットマシンに興じておられます。
すると、隣に座った中国人の婦人がなにやらお取引先様にスロットマシンの指導を。
その後、まさか!・・・約5千円分の香港ドルが・・・出てきました。
(この人、なにか持ってる!)
私は、お取引先様に夕食をごちそうになりました。

澳門のフェリーターミナルから香港へ移動。
楽しい一日でした。

1月13日
何のトラブルもなく、日本へ帰国。

その後、お取引先様とは、お会いしていません。
健やかにお暮らしでしたらうれしいです。
ありがとうございました。


Vol 7【なにかとトラブルがありました】

2012年4月
私は、ある社長を広州交易会、香港Gift Showに誘いました。
ふたりで成田空港から香港へ向かい。
香港のホテルにチェックイン。

私たちは、荷物をホテルに置いて、電車で広東省深セン市(羅湖駅)に行きました。
中国人の友達と羅湖駅前で待ち合わせをしていました。

私たちが尖東駅から乗った電車は、香港MTR 西鉄線です。
尖東駅から乗り、ホンハム駅で東鉄線へ乗り換えが必要でした。

西鉄線と東鉄線は、まったく同じ車両です。
アホな私は、これに乗れば、深セン市(羅湖駅)へ行けると信じ込んでいました。
私は、ホンハム駅で降りる乗客を横目に余裕の表情で電車に座っていました。

しばらくして、電車は、もと来た方へ走り出しました。
「えっ?」
西鉄線は、ホンハム駅で折り返し運行されているのです。
私たちは、振出し(尖東駅)に戻りました。

再び、西鉄線に乗車、ホンハム駅で東鉄線に乗り換えました。
再び、私は、気を許した!

東鉄線は、中国(深セン市)へ行きますが、落馬洲駅行きと羅湖駅行きがあります。
私たちは、中国人の友達が待つ羅湖駅へ行く予定でした。
しかし、私たちが乗ったのは、落馬洲駅行き。
分岐の上水駅を過ぎて、私は、「あれ?」・・・間違ったことに気がつきました。
私たちは、またまた落馬洲駅から上水駅へ戻り、羅湖駅行きに乗り換えました。

私は、友達と約束した時間を30分過ぎていたことを気にしていました。
しかし、イミグレーションで香港を出境、そして中国へ入国 → いろいろ手間どって1時間の遅刻。
この二度の手続きが不便でした。
(今でも同じだと思いますが・・・)
当たり前のことですが、おとななら時間には、余裕を持って!をつくづく感じた次第です。

現地(羅湖駅)で中国人の友達と合流。
遅刻して謝る私に彼は、いつもの笑顔でした。心から「謝謝!」

今度は、深セン市のホテルにチェックインして、食事へ出かけました。
当時、深セン市のホテルは、一泊3000円程度。
気軽に泊まることができました。
(今、このホテルは、オフィスビルになっています)

翌日から日本人ふたりでの行動。
ふたりとも中国語がしゃべれません。
緊張感が漂いました。

ホテルを出て、地下鉄に乗り、深セン駅(羅湖駅)へ。
ここから広州交易会へ行くために中国鉄路高速(和諧号)広州東駅までの切符を買います。

深セン駅で切符を買う時のことです。
駅員に「別々か?」と聞かれました。
私たちは、切符の支払いがそれぞれ別に・・・の意味ととらえ、「別々」と答えました。
すると、指定された座席は、一番前の車両と一番後ろの車両でした。
中国語が不得手な私たちは、何も言えず、約1時間ほど別々の車両で広州東駅へ向かいました。
今思うと恥ずかしい思い出です。

広州交易会場では、約4時間過ごしました。
つたない英語で出展者と情報交換できました。

広州交易会

帰りの深セン駅行きの中国鉄路高速は、満席。
それでも席は別々ながら、ふたりは、同じ車両に乗れました。

中国では、よくあることとは、聞いていましたが、私の指定席に誰かが座っています。
私は、切符を見せて、どくように促しました。
2~3分、知らん顔をされましたが、私もしつこくどくようにボディランゲージしました。
彼は、私に(たぶん)悪態をついて、座席を離れました。

深セン駅についてから、どーんとトラブル。
改札を出ようとして、駅員に切符を渡したところ、大声で怒鳴られました。
「なに?」・・・切符をよく見ると、行きに乗った時の切符でした。
広州東駅では、改札で切符を回収しませんでした。不覚です。

私は、帰りの切符を探しました。なかなか出てきません。
私が誘った社長は、先に改札を出て、待っています。
怒鳴られても中国語がわからないので困ります。

私は、日本語で駅員に「ちょっと待って!切符を探すから」と大声で言いました。
しかし、伝わるわけがありません。
見物人の人垣ができて、いやーなムードでした。

この騒動で駅事務所からネクタイ姿の(たぶん)えらい人が出てきました。
その時、私は、シャツの胸ポケットに切符を入れたことを思い出しました。
「切符、あった!」
私は、駅員に切符を渡し、「OK?(これでいいんだろ!)」と問いかけて、改札を出ました。
およそ5分ほどの出来事ですが、私は、ものすごく緊張し、暑くもないのに汗が・・・
今でも忘れられない思い出となりました。

改札を出た私に待っていた社長は、「大丈夫?」と問いかけました。
「切符がなかなか出てこなくて・・・待たせて、すみませんでした」
ほっとして、ふたりして大笑いしました。

我々は、何事もなく香港(尖沙咀:チムサーチョイ)に着きました。
その夜は、香港で宿泊です。
(英語が通じる香港へ入ると安心できました)


香港 男人街の路上レストランで夕食をとりました。
路上レストラン、今もあるのかしら?
ここは、衛生面を気にしなければ、安くて美味しかったです。
お店のトイレは使えません。公衆トイレまで5分歩くのがつらかったです。

一晩、香港で過ごし、香港Gift Showへ行きました。
尖沙咀からスターフェリーに乗って、湾仔(ワンチャイ)で下船。
私は、いつ香港へ来てもこの7分の船旅が一番好きです。

香港Gift Show、コンベンションセンターが広い。
前日の広州交易会でもかなり歩きました。

私たちは、かなりがんばって、出展者と情報交換しましたが、疲れて 午後4時には、会場を後にしました。
スターフェリーで尖沙咀へ着いた時、急に大粒の雨に降られてびしょぬれになりました
しかし、大きなトラブルはありませんでした。


その夜、私たちは、ジェットフェリーで澳門へいくことにしました。
尖沙咀駅から地下鉄 荃湾線に乗って、香港島の中環(セントラル)駅で下車。
私は、澳門行きのフェリーターミナルは、中環だと思い込んでいました。
ところが澳門行きのフェリーターミナルは、ひとつ先の上環(スンワン)駅でした。
ひと駅なので、ふたりして歩くことを選択。雨降る夜にビクトリア湾を眺めながら約30分の散歩となりました。
またまた、お連れした社長にご迷惑をかける結果となってしまいました。穴があったら入りたい心境でした。

雨に濡れた夜のセナド広場は、ライトアップされてきれいでした。
坂を上り、聖ポール寺院跡へ。厳かな空間と時間を感じました。
午後8時を過ぎて、私たちは、澳門で夕食を食べました。
お店は、閉店時間でしたが快く私たちを入れてくれました。
ありがとうございました。

ここは、セナド広場に面した観光レストランでしたが安くて美味しかったです。
今回、唯一の観光です。
(この頃まで澳門の物価は、安かったのです)

翌朝、私たちは、女人街で朝食を食べて、香港国際空港から成田空港へ向かいました。
飛行機の出発がかなり遅れました。


飛行機は、成田空港へ午後10時頃到着。
成田空港のイミグレーションを出たら、東京まで行く電車・バスが無い。
京成本線で行けるところまで行って、タクシーで帰宅となりました。
これまた、忘れられない思い出です。

余談ですが、
もうひとりの社長は、埼玉県にお住まいでした。
後日、タクシー代、3万円超えたと聞きました。
トラブル続きの旅で申しわけない思いでいっぱいです。


Vol 6【会社設立後のお話し】

2008年5月、会社を作ってみたものの、まだ営業力が無く、苦しい運営を余儀なくされました。

自転車営業でコストダウンを図るより、先ずは「生活費」ということを痛切に感じ、午前4時から午前8時まで働ける宅配便の荷物仕分けのアルバイトをしました。
午前10時からは、会社の営業活動ができます。
私には、ありがたいアルバイトでした。

宅配便の荷物仕分けは、かなりたいへんです。軽い荷物ばかりではありません。
箱入りの酒類、ミネラルウォーターは、10kg以上あります。
大きな布団や取扱注意の高級衣類、神経を使います。

2人~3人で荷物を5台~7台の配送車へ仕分けします。
これを配送順路に従って、配送車へ載せていきます。
頭が悪い私は、配送順路の番地を理解するのに半年くらいかかりました。
たまに間違って別の配送車へ荷物を載せてしまうことがありました。
その場合、全部の配送車から荷物を降ろして、探し回ることになります。

また、配達日指定の荷物が見つからず、倉庫中を探したこともありました。
宅配便の荷物仕分けは、重労働ですが、筋肉強化ができます。
倉庫を走り回るので、心肺機能も上がります。

ただし、怪我をすることもあります。
ある時 私は、クール便の配送冷蔵庫(約300kg)に足を挟まれ、骨折しました。
全治2ケ月。
私は、生まれて初めて「労災」認定を受けました。

その後、頼まれてコンビニでのアルバイトを加えました。
50代になり、体力が落ちてきました。

アルバイトをしていた頃の睡眠時間 およそ4時間。
無理がたたったのでしょう、2016年 私は、椎間板症になったため、すべてのアルバイトを辞めました。
当時は、つらかったことが今は、思い出です。

私は、よく「サラリーマンを辞めて、会社を作りたい」という方から質問を受けます。
「それは、やめたほうがいいですよ」と答えます。
会社経営は、良いことばかりではありません。
自分の生き方を冷静に考えた方が良いと思います。


Vol 5【会社設立前のお話し】

2007年 会社を設立するための1年間は、とてもいろんなことがありました。
お金を節約するためにママチャリで営業活動を行っていました。私は、まだ40代半ば、体力はありました。
都心まで行ってしまえば、ママチャリは、行動しやすい乗り物でした。

新宿-自転車駐輪

主に船橋市から新宿へ行くことが多かったです。距離 約35km。
都会は、信号が多くて、なかなか進むことが出来ません。甲州街道や靖国通りは、ずーっと上り坂です。
足がつります。
中央区

新宿までは、最初3時間かかりました。電車なら1時間足らずです。
1度走ってみて、かなり疲労が激しいかったので、もうやめようかと思いました。
しかし、ここでやめては、何をやっても途中で投げ出しそうだったので、次の日もママチャリで新宿まで行きました。
そのうち慣れてきて、一番早い記録は、2時間10分です。
平均でも2時間30分となりました。
浅草橋

夜も9時を過ぎると、都内をママチャリでスーツ姿の男は、髙い頻度で警官に職務質問されます。
神田(千代田区)~浅草橋(台東区)は、確実に職務質問を受けました。
同じ日に3回 職務質問を受けたことがあります。
まず「ご自分の自転車ですか?」と聞かれ、防犯登録証のチェックを受けます。
次に「どちらまで?」と聞かれます。
「船橋市まで」と答えると「えーっ!」と驚いてくれました。
素直に答えただけなのですが・・・

夜の神田

お取引先様へ行ったときには、私のママチャリを見て、「事務所をこの近くに構えたのですか?」という質問が多かったです。
「いいえ、船橋市から来ました」と言うと、やはり「えーっ!」と驚いてくれました。
ほんと、素直に答えただけなのですが・・・

この先、自分は、どうなるのだろうか?
不安を抱えながら、ペダルを踏んでいたことを思い出します。
時にママチャリを止めて、きれいな景色に見とれていました。

皇居

隅田川-浅草橋

一番遠いところでは、中野(中野区)から大崎(品川区)まで行ったときです。ざくっと、往復で86km走りました。
電車などの交通機関のありがたさ、身をもって知りました。

私は、この移動手段をあまりお勧めしません。
しかし、ダイエットには効果があります。
1年後、体重が10kg減りました。


Vol.4【干支のぬいぐるみの祈願】

干支のぬいぐるみを発売していく中で
微力ながらお買い上げいただくお客様のしあわせを願うために
2012年(平成24年)から出雲の神々へ参拝して参りました。

左から 斐伊神社, 須佐神社

 
毎年 10月~11月に
・出雲大社
・美保神社
・玉造湯神社
・須佐神社
などへ参拝し、皆様のご多幸、ご健勝を祈ってまいりました。
中には、険しい山道を登るような階段を、時間をかけてひたすら歩き、じっくりと参拝いたしました。

出雲大社

荘厳な感じがします

出雲大社神馬神牛像
例年だと手で触れることができたのですが・・・
衣毘須神社
滿汐になるとたどり着けません

佐太神社

今年はコロナ禍で暗い一年となりました。
来る令和3年は、皆様がしあわせに過ごされることを願っております。
感染に留意しながら、このウイルスを気にせず、生活できるようになることを切に望みます。


Vol.3【2013年10月 Kさん、Iさん【SNSで不思議な出会い】】

2013年の秋、私は香港MEGA SHOWを視察する準備をしていました。
たまたま、2012年から始めたSNSで以前いた会社の先輩と知り合いました。
それまで先輩とは約20年間 音信不通でした。
連絡先も知りませんでした。

先輩はすでに会社を辞めて 中国 広東省 深セン市で仕事をしていました。
アホな私と違い 中国語はネイティブ状態。
中国でバリバリ仕事をこなしていました。

私は、先輩とSNSで連絡を取りました。
先輩は私に会いに香港まで来てくれると言いました。

私たちは香港島の香港駅で待ち合わせをしました。
私は 海外で、20年もお会いしていない日本人の先輩と香港で久しぶりにお会いする「不思議」を経験しました。
私たちは20年の空白がなかったように食事をし、昔話に花を咲かせました。

私は先輩に明日 中国(広東省 深セン市)へ行くことを話をしました。
先輩は「明日も深センで会おうや」と言ってくれました。

翌日、私の友達(中国人)と3人で夕食しました。
青島ビールがいつもより美味しかったです。

2014年にはさらにSNSで以前いた会社のもうひとりの先輩とも知り合い、3人で澳門へ行くことができました。

その後、先輩は2015年に上海へ異動。
私は先輩を訪ねて 上海へも行くようになりました。
インターネットでの不思議な出会いです。


Vol.2【2005年 香港からマカオへ】

2005年7月 私は、ある小売りチェーンのバイヤーを香港の展示会へアテンドしました。
その時は、台湾出身のメーカーさん、電気小物のメーカーさんと一緒でした。
台湾出身のメーカーさんは、その後 日本人に帰化します。
台湾の人は、日本が好きですね。

我々は、展示会場を視察し、夕食後、台湾出身のメーカーさんが「今からマカオへ行きませんか?」と言いました。
午後10時になろうかという時刻です。
「こんな時間にマカオへ行く船があるの?」みんなは、彼に聞きました。
「マカオまでの船は、24時間動いているよ!」
驚いたことにその話は、事実でした。

深夜、香港からマカオまでの船旅は、危険なこともあるのでおすすめしません。
私たちは、意を決して、深夜にマカオへ旅立ちました。
尖沙咀から上環フェリーターミナルへ着いたのが午後11時。
ここからマカオまで1時間ジェットフェリーに乗りました。1時間後、船からマカオが見えました。マカオは、明るく光り輝いていました。

マカオのフェリーターミナルからセナド広場までタクシーに乗りました。
私達は、有名な観光地 聖ポール天主堂跡が見たかったのです。
ところがタクシードライバーに英語が通じません。マカオは、ポルトガル領だったので約100年 ポルトガル語が公用語でした。
当時は、英語を話す人が少なかったのです。
タクシーはあるホテルに停まりました。ドライバーは、ホテルのドアボーイに通訳を頼んでいました。
実は、ドアボーイも英語が得意ではありませんでした。
何とか、タクシーでセナド広場にたどり着き、我々は、誰もいない聖ポール天主堂跡を観光しました。
当時のデジカメは、夜の写真に適していません。フラッシュを焚くと人しか映りませんが良い思い出になりました。

我々は、カジノで軽くスロットマシンに挑戦した後、午前3時のジェットフェリーで香港へ戻りました。
残念ながら誰もスロットマシンで良い思いはできませんでした。


Vol.1【香港・中国へ】

私が香港・中国へ初めて渡ったのは、2004年です。
ある社長達に誘われるがまま、1月に香港のTOY&GAME SHOW(展示会)へ行きました。
香港は、1995年にイギリスから中国へ返還されてから9年経っていました。
この時の香港には、まだ燃えよドラゴンなどでおなじみのブルース・リー的な懐かしさがありました。
道路まで張り出した大きな電飾看板。白いシャツから汗を吹き出しながら働く人々。
九龍公園で太極拳を楽しむご老人方。私には、懐かしい世界でした。

この時、私が困ったのは、言葉の問題。
香港は、英語でコミュニケーションが取れます。
しかし、私は、英会話が得意ではなかった。
カタコトの英語・・・英単語でやり取りしたことを思い出します。


2004年の4月、私は、香港のギフトショーへ行きました。
この頃、香港 九龍の街は、いろんなところで工事が行われていました。
ひとつは、ビルの改築です。
ジャッキー・チェンの映画でもよく出てくる竹の足場をいたる所で見ました。
もうひとつは、地下鉄の路線延長工事や地下歩道の工事でした。


やがて2010年頃から九龍 尖沙咀(チムサチョイ)は、きれいで便利な街に変わっていきました。

私は、香港ギフトショーの合間に電車で広東省深セン市へ行って来ました。
2003年に知り合った中国の友達が深セン市に住んでいました。
タクシーでホンハム駅へ行き、KCR(今は、MTR東鉄線)で羅湖駅で下車しました。
ここで生まれて初めて中華人民共和国の地を踏みました。
日本人は、中国へ入国するのにビザの取得が必要ありません。
しかし、中国のイミグレーションは、笑顔が無い重い雰囲気でした。
私は、とても緊張しました。
まだ、スマホで国際電話を頻繁にかけられる環境ではありませんでしたが私は、深セン市の友達とスムースに会うことができました。


中国側の羅湖駅前は、大々的な工事中でした。
道路も工事中だったため、クルマは駅まで入って来られませんでした。
私達は、工事の現場を迂回し、駅から約1km先に駐車していたクルマに乗り込みました。

私は、友達に中国の工場を案内してもらいました。
工場には、地方から出てきた工員さんが多く、住み込みで働いていました。
彼らの月給は、日本円で4000円~8000円。
彼らの服装は、衛生的ではありませんでした。彼らが支給される食事も豪華ではありませんでした。
(今の中国の工場は、かなり近代的に変貌しています)
私が子どもの頃の日本を思い出しました。
日本のトイレは、汲み取り式が大半でした。肉屋のコロッケやカレーライスがごちそうでした。
やがて日本の大都市には高層ビルが建ち始め、空はスモッグで覆われる。
中国は、この道を歩き始めたことを知りました。


2004年9月、私は、100円玩具の買い付けのためにある玩具メーカーの社長と広東省汕頭市へ行くことになります。
今でこそ広東省汕頭市へは、新幹線(中国鉄路高速:和諧号)で楽に行くことができます。
当時は、新幹線がありませんでした。私達は、深セン市からバスで汕頭市を目指しました。

汕頭市へは、約4時間かかります。夕方乗ったバスの車窓から大地に沈み夕陽を見ました。
私は、日本で海に沈む夕陽を見ることはあります。大地に夕陽が沈むのは、この時が初めての経験でした。
どこまでも続く大陸の大地に夕陽が沈む姿を見た時、「こんなに広い世界があるんだぁ!今まで何をくよくよ悩んでいたのか?」と思いました。


初めて行った汕頭市のホテルで私は、パスポートを無くしかけました。頭の中は、真っ白。
結局、私のパスポートは、ホテルのフロントにありました。日本のホテルのように宿泊客に紛失物を連絡してくることはありません。
すべてが自己責任の世界です。それ以来、私はウェストポートで財布やパスポートを管理することにしました。
いつも決まったところに必要なモノを入れておく管理方法にしました。


翌日、玩具メーカーの社長と玩具商社や工場を見に行きました。
玩具メーカーの社長は、ギャンブルもやらなければ、お酒も飲まないストイックなタイプ。
ところが玩具の話となるとサンプルで子どものように遊び始めました。遊んで製品の良否を判断しているのです。
まさしくプロフェッショナル!私に欠けているところを垣間見ました。
この玩具メーカーの社長とは、今でもお取引があります。

私は、その翌日に汕頭市を後にして、ひとり バスで深セン市へ向かいました。
バスに乗る時、玩具メーカーの社長が「ほんま、帰りはりますの?」と言いました。
私には、帰る理由がありました。私は、東京-香港の安い航空チケットを買っていました。
このチケットは、乗る飛行機が決まっています。乗る日の便を変えることができなかったのです。
そんなわけで、私は 汕頭市 → 深セン市(羅湖駅) →イミグレーション→ 羅湖駅(香港) → 尖沙咀(チムサチョイ)へ戻りました。
私は、まったくトラブルが無く、翌日 日本へ着きました。

2004年、私には忘れられない年です。