社長のコンビニ奮戦記
こちらでは(株)クニヨシの社長が、会社設立前に17年間コンビニ業界で勤務していた頃を振り返り、印象に残った『よもやま話』をご紹介します。
昔の話で恐縮です!懐かしい時代の用語なども楽しんでいただき、ごゆっくりとお読みいただければ幸いです。【社長談】
※こちらのコーナーでの掲載画像はすべてイメージです。各エピソードの順番や年代は前後する場合があります。
ここからは、『コンビニ初 テレビゲーム機』を販売した時のエピソードを紹介いたします。【社長談】
私が勤めていたコンビニでの思い出話です。
1995年から2000年、
まだ店舗数は、5000~6000店くらいでした。
そんな頃の思い出話です。
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【1996年 コンビニ業界初!TVゲーム機 販売】
1996年春、店頭予約システムLoppiの開発を前提に雑貨やホビーの店頭予約を開始しました。
新設のこの部署へかなり優秀な人材が集められました。
その部署の通称 田中はんが玩具担当の私を訪ねてきました。
「NT堂の新しいTVゲーム機を売らないか?」と言いました。
それまで、某●△☆イレブンが 「ファイナルファンタジー」を予約販売していました。
当時、我が社のスローガンが「Catch up ●△☆に追いつけ」
私は、店舗指導の部署から「なんでファイナルファンタジーが扱えないんだ」とお叱りをいただいておりました。
●△☆イレブンは、ゲームソフトは販売していましたが、(高額な)TVゲーム機を販売したことがありません。
もちろん、他の大手コンビニもTVゲーム機を販売したことがありません。
リスクが大きすぎないかなぁ?と、考えながら、コンビニ業界初となるTVゲーム機販売をやってみたいと考えました。
田中はんを始め上司、先輩方に助けていただきながらNT堂のTVゲーム機 Nxxxxx64を予約販売することが決まりました。
受付マニュアルの作成、、販促部へ販促物の作成依頼、NT堂との打合せ、店舗へのデリバリー確認など、2週間程度でまとめました。
この当時、店舗にストアコンピューターは設置されておらず、店舗への情報は、すべて印刷物で配布しました。
受付スタート。店頭での予約も進み、順調に終わるかに思えました。
が、予約の最終日に私のミスが露呈。
私のホストコンピューター登録ミスで最終日に店舗での予約ができませんでした。
結局、最終日の予約分を店舗指導員が確認し、受注を受けました。
かなり面倒な作業となりました。
たいへん申しわけないことをしたと反省しきりです。
1996年6月23日
NXXXXXX64 約10000台とMカートなどのゲームソフトを無事にお客様へお届けできました。
約3億円の売上高でした。
お買い上げいただきましたお客様に御礼申し上げます。ありがとうございました。
この後、新しいゲームボーイ、ゲームボーイポケットの予約販売を実施。
Sサターン本体やゲームソフトの予約販売も致しました。
翌年の秋、予約システムは、スーパーファミコンやゲームボーイのソフト書き換え機能を備えたLoppiにバトンタッチしました。
お店様もカウンターでの受付や手作業で商品を発注する手間が無くなりました。
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【1997年 ポケモン青の販売】
1997年、まだパソコンも普及しておらず、社内の書類は手書きでした。
業務がなかなか終わらず、毎日残業していました。
その風習(?)が好結果を生むことがありました。
1997年5月のある日、
午後8時過ぎに大手出版社、子ども雑誌編集部から電話をいただきました。
当時大流行していたポケモンのゲームソフトをコンビニで販売したい。
ついては、責任者と至急話をしたいとのことでした。
上司、部長は、午後6時過ぎに帰えられました。
そこで私は、部長のご自宅へ電話しました。
先方の申し出を伝え、すぐに先方へ電話するように説明しました。
翌日から今まで商談したことが無い出版社の方々と商談をすることになりました。
出版社の編集部は、夕方から仕事開始だそうです。
出勤が早い編集者でも午後2時とのこと。
出版社との商談・打合せは、午後6時過ぎが多かったです。
数日後の夕方、子ども雑誌の編集責任者が我々のコンビニ本部へ来られました。
子ども雑誌でポケモン青の発売を告知し、それを我々のコンビニで予約受付をしてほしいとのお話でした。
今までに無いコラボレーションです。
部長は、この話を即断でお受けしました。
(課長、私もこの判断に賛成しました)
我々は、予約の受付をいかに行うか、数日間検討しました。
この当時、まだ店舗には、予約機(Loppi)がありませんでした。
レジでポケモン青の予約を受け付けることにしました。
受け付けた数量を店舗から発注していただき、納品することを決めました。
この出版社から後日 連絡をいただき、小学生向け雑誌など全13誌 合同企画となったことを知りました。
我々は、出版社での会議に臨みました。我々は、部長、課長、私の3名。出版社側は、約30人が出席しました。
人数の多さに圧倒されたことは、言うまでもありません。
緊張で膝がガクガク動いていたほどです。
会議で編集者に店舗での予約受付方法などを説明し、ご理解いただきました。
店頭でのお渡しが1976年の7月16日に決まりました。
余談ですが、この小学生向け雑誌は、チェーン店ごとに納品数が決められていました。
とても売れていましたが、全店に納品されていませんでした。
私たちは、出版社に全店供給できる部数をいただきたいと要望し、認められました。
小学生向け雑誌も売上がアップし、加盟店様のお役に立てたと考えております。
出版社を出ると午後10時を回っていました。
課長と飲んだビールが美味しかったです。
私は、数日かけて店舗向けのマニュアルを作りました。
店舗指導の部署、システム部署と打合せで問題を取り除き、店舗へマニュアルを配布しました。
店頭でのお渡しまで約2ケ月。急がないと!私は、必死に働きました。
ポケモン青は、ゲームボーイソフトです。
カセット式のため、製造に時間がかかります。
予め計画数を決めていましたが予約数が多くなりそうな場合は、増産することを決めていました。
そのため、毎日 店舗での予約数を関係者にお知らせしていました。
我々は、予約受付の準備をしながらと商品供給についての商談をしました。
商品供給は、任天堂様指定の玩具問屋3社から受けることになりました。
私は、予約数を確認しながら、出版社や玩具問屋と打合せをしました。
最終的な予約受付数は、約68万本と記憶しております。
お客様へのお渡しは、スムーズに行われました。
大きなトラブルは、ありませんでした。
多くの皆様にお力添えいただきましたことを感謝申し上げます。
ありがとうございました。
ここからは、皆様に愛され続ける『10円駄菓子』の販売エピソードをご紹介いたします。【社長談】
各商品、2022年に値段が上がりましたが、引き続きご愛顧ください。
【10円菓子を販売】
1986年(昭和61年)
私は、関東地区の菓子バイヤーでした。
入社から2年目。まだ駆け出しでした。
関東地区での店舗数は、およそ600店くらいでした。
ロッテビックリマンチョコが大人気の時代です。
この頃、●△☆イレブンが10円駄菓子の販売を始めました。
うまい棒、チロルチョコ、ビッグかっちゃんなど今では、定番となっている駄菓子は、この頃コンビニで販売を開始したのです。
お店から10円駄菓子を採用してほしいとの要望がたくさん届きました。
私は、「駄菓子は、子どもの思い出に残る。たいせつな商品かも知れない」と考えました。
当時駄菓子屋がどんどん閉店する中、コンビニで駄菓子を販売するべきだと私も思いました。
私は、菓子問屋へ相談しました。
10円駄菓子メーカーから商品供給を受けられるのか?菓子問屋の課長に確認してもらいました。
まだ、店舗数が少なかったため、商品供給いただけることになりました。
私は、10円駄菓子の登録を本社(当時大阪)へ申請しました。
しかし本社が10円駄菓子の販売をなかなか許可しませんでした。
10円駄菓子を販売すると、客単価(1度のお買い上げ金額)を下げるという理由でした。
1か月後、店舗指導の方々のご意見を聞き、再度 10円駄菓子の登録を本社へ申請しました。
この時も却下されました。
私は、●△☆イレブンの店頭で子どもたちが楽しそうに10円駄菓子を食べる姿を撮影しました。
そして、再度 採用の理由書と写真を添えて、10円駄菓子の登録を本社へ申請しました。
上司 林課長(エリアマネージャー)のサポートもあって、今回は、10円駄菓子の登録が許可されました。
やがて10円駄菓子は、全国の我がコンビニで販売されるようになりました。
小さなお子様方の笑顔がうれしかったです。
ありがとうございました。
プリント済み年賀状販売にまつわるエピソードをご紹介いたします。【社長談】
【プリント済み年賀状を個店発注】
1990年代
年末年始のコンビニは、年賀状印刷の受付やプリント済み年賀状の販売が盛況でした。
プリント済み年賀状は、官製年賀はがきに絵柄が印刷されており、割高でしたがコンビニアイテムとして定着していました。
ほとんどのお店で完売しました。
我がコンビニでは、プリント済み年賀状は、お正月が終ったら返品ができたため、前年よりも多く納品を希望するお店が多かったです。
お取引先は、なるべく返品が少なくなるような納品数量を希望していました。
私は、お店、お取引先、双方の要望に応える方法を模索しました。
今までは、本部で20柄をA~E(4柄を5種)のセットにしていました。
お店と店舗指導員が前年の売行きを確認して、希望(セット)数を本社へ提出していました。
その希望数を参考に本社でお店の納品数を決めていました。
バーコードは、A~Eセットごと付けていました。
(4柄ごとに同じバーコードを付けていたのです)
たとえば、Aの4柄で1柄がとても売れていても その単品のデータが拾えなかったのです。
これでは、売れ筋の傾向がわからず、次年度に活かすデータになりませんでした。
私が担当になり、約5000店の販売状況をお取引先と再確認し、策を講じました。
試行錯誤し、私製キャラクター年賀状を今までより多く取り入れ、各店の売り上げが前年比で110%になるようにしました。
さて、これをどのように発注したらよいか。
当時は、本部で個店ごとに人が発注するしか方法がありませんでした。
私たちは、1店舗ずつ、約30アイテム(私製キャラクター年賀状含む)のプリント済み年賀状をキーボードで入力していきました。
私、同僚、パートさん、お取引先様にも手伝っていただき、約1ケ月かけて約5000店分のオーダーを完了しました。
締め切りに間に合わせるため、土日もデータ入力を致しました。
この単品発注により、販売率など、今までにない販売データを得られました。
コンビニは、販売データが命!どんな絵柄がよく売れるか、はっきりわかったのです。
私たちの苦労が報われました。
翌年は、システム部がもっと簡単な方法を講じてくれました。
この年のプリント済み年賀状は、売上(個店)前年比108%でした。
目標の110%には、届きませんでしたが少しは、お店様、お客様のお役に立てたように感じております。
ご協力いただいたみなさま、ありがとうございました。
コンビニで受付けていたDPEサービスにまつわるエピソードです。【社長談】
【思い出がなくなった】
平成4年(1992年)私が帯広事務所で勤務していた頃の話です。
1980年代からコンビニは、DPEサービスを行っていました。
(DPE= Development,Printing,Enlargementの略、フィルムの現像や写真のプリント業務)
この年、現像所をA社からB社に変更した後、お客様からお預かりしたフィルムが紛失する事故がありました。
お店がお客様から預かったフィルム、仕上った写真は、お弁当などの配送便が受け渡しを行っていました。
現像所は、配送センターでフィルム、仕上った写真のやり取りをしていました。
ある日、3店舗からお客様の写真が届いていないと連絡が入りました。
私は、各お店で出し忘れていないか、確認してもらいました。
配送センターにも受け取ったフィルムが残っていないかを確認してもらいました。
数日たってもお客様のフィルムは、見つかりませんでした。
私は、現像所の方とお客様宅を訪問。
現像所の方が用意したカメラをお渡しし、おわびしました。
「このカメラでまた楽しいお写真を撮ってください」と申し上げました。
2名のお客様にご了解いただきました。
ご納得いただけないお客様へは、3回おわびに伺いました。
お聞きしたところ、新婚旅行(ハワイ)で撮影した写真だったとのことです。
私は、フィルムの紛失で思い出の一部がなくなったことを痛感しました。
とにかく平身低頭、心からおわび申し上げました。
3回目に訪問した時、ご主人から「二度とこのようなことが起きない対策をしてください」と言われました。
以後の対策を示すことでお許しいただきました。
ほんとうに申しわけない気持ちでいっぱいでした。
対策として、
お店と配送車との受け渡しの時、受付本数を記録することにしました。
配送センター、現像所の受け渡しの時も受付本数を記録することにしました。
お店を含めた関係者は、今回の事故を重く見て、受付手順の変更を受け入れてくれました。
私は、お客様に対策を報告し、御礼申し上げました。
以後、同様の事故は、起きていないと聞いております。
ご協力ありがとうございました。
コンビニ店頭での牛乳の商品陳列にまつわるエピソードです。【社長談】
【廃棄を減らす】
昭和60年(1985年)
入社1年目、私がコンビニ(店舗)勤務だった頃。
コンビニの冷蔵庫は、すべてリーチインというドアで開けるタイプでした。
お惣菜などの日配品やチルド飲料、缶飲料(ペットボトルはまだない時代です)もリーチインで販売されていました。
当時、牛乳の販売期間は、製造日を入れて2日でした。
業界で「D+2」という販売期間です。
販売期間が短いので廃棄することがよくありました。
私は、廃棄を減らすためにお客様が買いやすい位置はどこかを考えました。
そして、お客様は、ドアを開けたそばから牛乳を取り出していることに気がつきました。
私は、牛乳の入荷が早い(日付が古い)順にドアの開け口付近へ陳列しました。
すると牛乳を廃棄することがなくなりました。
同期が配属されて店舗でも実験しました。やはり同じ結果となりました。
廃棄を出さない店舗運営にご協力いただいた賢いお客様に感謝申し上げます。
北海道の帯広で勤務していた時代のエピソードです。【社長談】
【帯広地区人気商品の採用】
1992年~1994年頃の話です。
当時帯広地区に我がコンビニは、約30店。
メイン商品は、東京本社や札幌支社で行っていました。
しかし、お店様からの要望が多く、どうしても帯広地区で採用しなければならない商品がありました。
Yつ葉牛乳とT勝毎日新聞です。
<Yつ葉牛乳>
当時、我がコンビニは、全国どこでもYつ葉牛乳と取引がありませんでした。
ましてや約30店分の発注数で帯広のセンターまで配送してもらえるかもわかりませんでした。
なにもかもゼロからの商談です。
商流、流通について、H連やお取引先にお聞きしました。
皆様に調べてもらったところ、Yつ葉牛乳の商談窓口は、札幌とのことでした。
Yつ葉牛乳からは、販売量が少ないため取引できないとの回答をいただきました。
(世の中無常です)
しかし、取引先の部長が粘り強く札幌で商談してくれたおかげで2か月後、Yつ葉牛乳から了解を得ました。
私にとってもうれしく、お店の方、お客様にも喜んでいただけたのではないでしょうか。
ありがとうございました。
1995年私が東京本社へ転勤した後で、取引先の部長が亡くなったと連絡をもらいました。
当時、私は、忙しく、ご葬儀に参列できませんでした。
1ケ月後、私は、ご家族に許可をいただき、取引先の部長宅でお線香を上げさせていただきました。
良い方は、早く天に召されると言いますが、まさしくその通りのできごとだと考えます。
ありがとうございました。天国でのご活躍(?)を願っております。
<T勝毎日新聞>
昭和から平成の時代、新聞は、コンビニ商品でした。
仕事前(朝)にコンビニで新聞やスポーツ新聞を買って読み、話題を作ることが時代のトレンドでした。
T勝毎日新聞は、夕刊のみ。帯広市を中心に配布されている新聞です。
地元では、誰もが読んでいる新聞でした。
この新聞は、我がコンビニで販売されていませんでした。
新聞は、実売店(新聞配達店)に許可されないとコンビニでは販売できませんでした。
東京の取次店(流通問屋)に実売店と交渉してもらいました。
実売店の許可は、もらえません。
コンビニでT勝毎日新聞を売られたら実売店の利益が減るという理由でした。
通常、新聞やスポーツ新聞は、取次店から納品されます。
この方法だと、確かに実売店は、利益が減ります、
そこで、伝票は、取次店が入れて、実売店からT勝毎日新聞を我がコンビニへ納品出来ないか、調整してもらいました。
こんな方法です。実売店への代金支払いは、取次店が行う。我がコンビニへ納品は、実売店にしてもらう。
私が提案した方法で実売店の方から販売許可をいただきました。
T勝毎日新聞を配達する実売店の皆様も我がコンビニのお客様、朝早く開いているコンビニでお買い物されると聞いてうれしくなりました。
みなさま、どうもありがとうございました。
北海道勤務時代、オリジナル食パン開発に関するエピソードです。【社長談】
【値ごろな食パンを作りました】
1989年3月
私は、関東から北海道札幌に転勤しました。
街には、雪が残っておりました。
白い世界は、スキー場以来です。
北海道は、全国で一番パン(ベーカリー)の購買額が低いエリアです。
ここでパンをもっと売ろうという試みを行いました。
店舗指導員からどうしたらパンがもっと売れるか、意見を聞きました。
「食パン」の価格が高いという意見がありました。
私は、製パンメーカー2社と価格を下げる商談しました。
1社からは、即座に断られました。
もう1社は、我がコンビニのオリジナル食パンにすれば、価格を安くできると言われました。
当時、札幌近郊の店舗数は、300店くらいです。
この店舗数でオリジナル食パンを作るべきだろうか、私は、上司や本社に相談しました。
反対されると思いきや、「やってみい!」という結論をいただきました。
オリジナル食パンを作るため、仕様を確認したり、保健所に「製造所固有記号」を登録したり、パッケージを作ったり致しました。
ちょっと、忙しかったです。
およそ4ケ月後にオリジナル食パン「エクスクイジット」を発売致しました。
この頃(1990年)に日糧製パンが発売した北海道チーズ蒸しパンが売れに売れました。
北海道チーズ蒸しパン効果(?)でパン(ベーカリー)の売上高 個店前年比は、110%を超えました。
オリジナル食パン「エクスクイジット」は、いつの間にか、忘れられる存在に。
しかし、私には、初めての商品づくりで、よい経験になりました。
ご協力いただいた皆様に感謝申し上げます。
北海道勤務の厳冬期に体験したコンビニエピソードです。【社長談】
【帯広の年末年始】
1994年頃、帯広での話です。
少しづつ、店舗数が増えて、帯広事務所に活気がありました。
(40店を超えた時期だと思います)
<年末、クリスマス頃の話です>
当時、店舗で揚げる「から●げくん」という商品がとても人気でした。
多くのお客様にお求めいただきました。
売れ過ぎで多くの店舗で在庫が切れました。
納品は、週2回です。次の納品日まで間がありました。
店舗運営マネージャーから「なんとか入荷出来ないか?」と聞かれ、
私は、自家用車で「から●げくん」を取引先様へ取りに行くことにしました。
取引先様は、釧路市、帯広市から約120km(2時間半)の道のりです。
隣町ですが、けっこう距離があります。
お取引先様で「から●げくん」を自家用車のトランク、後部座席に積込みました。
トランク、後部座席から届くドライアイスの冷気がからだに沁みました。
(暖房が使えず、寒いからだで帯広市の直営店に着いたことを覚えています)
店舗指導員が直営店から「から●げくん」を品切れしたお店に配達しました。
この月、ファストフードの売上が前年比110%を超えました。
お客様、お店様にも喜んでいただき、とても誇らしい気持ちでした。
ありがとうございました。
そのお正月の配送で事件が起こりました。
お店へ納品した飲料が漏れ始めたのです。
冬の帯広は、零下になります。ほろ布をかけた配送車で零下の中を配送したため、ビン・缶飲料が凍りついたようです。
(ペットボトルの発売はなく、ビン・缶飲料・チルド飲料の時代でした)
温かい店内でビン・缶飲料が凍りから液体に戻ります。破損したビン・缶から中身が漏れ出したのです。
加工食品のお取引先様にクレームを入れると共に、翌年から外気の影響を受けない保冷車で配送していただく事にしました。
北海道の厳しさ、身をもって感じた年末年始でした。
ありがとうございました。
ここからは、2004年、青い看板のコンビニを辞めてからのエピソードを紹介いたします。【社長談】
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【中国地区での展示会】
2004年、青い看板のコンビニを辞めて約2年が経ちました。
私は、個人事業で玩具や雑貨をコンビニ(主にサークルKサンクス)へ販売していました。
そんな時、勤めていたコンビニでとてもお世話になったTN先輩が東京本社から松山へ異動。
私は、松山へ表敬訪問しました。
ここで新商品のいろんなアイデアをいただきました。
また、岡山(中国・四国地区)のバイヤーをご紹介いただき、古巣のコンビニへ商品を納めることになりました。
ありがとうございました。
TN先輩は、翌年2005年、岡山へ異動。
私は、商談と称して、年に数回 岡山へ行きました。
(商品のアイデアをいただきに行きました)
私は、当時、お金が無かったので 新宿 発の深夜バスで岡山まで行ったこともあります。
午前7時に岡山駅前着く予定が午前5時に着きました。
行く場もなく、当時流行っていた漫画喫茶でからだを休めました。
(個室なのでよく眠ることができました)
羽田空港 ー 岡山空港は、10000円くらいの旅費だったため、新幹線より飛行機をよく使いました。
バスで岡山駅まで出て、電車で高松まで行った時の瀬戸大橋が素敵でした。
(時間はかかりますが費用が安かったのです)
また、岡山駅から大阪まで 普通列車で3時間かかることもわかりました。
(時間に余裕がない限り、お勧めできません)
この頃、コンビニ本部は、年に2回、春と秋に展示会を開催しました。
お店のオーナーや店長、勤務者(主力アルバイトさん)へ新商品の説明や売り場づくりなどをお知らせしていました。
私は、TN先輩の依頼でメーカーとして、展示会に参加しました。
在任当時にお世話になった方々にお会いできて、とてもうれしかったです。
ありがとうございました。
仕事に厳しいTN先輩のおかげで ここ岡山での商談で「干支のぬいぐるみ」を世に出すきっかけができました。
人と人とのお付き合いは、とても大切です。
私は、これからもお世話になった方々とのつながりを大事にしたいと考えています。
みなさま、ありがとうございます。
ここからは、北海道の帯広市に転勤となったエピソードを紹介いたします。【社長談】
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【札幌から帯広へ】
1991年 私は、札幌にいました。
1989年 首都圏から転勤し、札幌にも慣れた頃でした。
我がコンビニは、帯広市での店舗開発を進めていました。
お弁当、サンドイッチ、総菜を安定供給するために帯広近郊の取引先と商談していました。
商品の担当は、Sバイヤー。札幌から出張していましたが、取引先との距離を縮めるために帯広転勤を言い渡されました。
Sバイヤーは、転勤できないと言い、あっさり職を辞ました。
1991年4月 急きょ、私が帯広へ転勤することになりました。
なにがなにやらわからないままに 私は帯広へ転勤しました。
ちょうど、3月に結婚して、プライベートでもバタバタしておりました。
余談ですが、我がコンビニは、ダイエーグループでした。
大先輩からダイエー東札幌店(現在、イオン)の店長を紹介され、家具ゃ家電をとても安い価格で買うことができました。
ありがとうございました。今でも使っている家具があります。
帯広の事務所は、後藤米穀ビル2階でした。
店舗指導員、店舗開発員、私の5人で我がコンビニ道東地区の運営がスタートしました。
私の仕事は、
(1)お取引先様との情報交換
我がコンビニの仕様書通りにお弁当、サンドイッチ、総菜などを作っていただくための情報交換です。
当時、お弁当は、朝、昼、夜の3回 店舗へ供給しておりました。
ある日気がついたのですが、夜入荷したお弁当がすっしり重い。
通常、お弁当の重さは、450g程度です。計ってみました。1000g、なぜ?
私は、翌日、お弁当を作っている製造社(工場長)にお話をお聞きしました。
「飯、余っちまってよぉ。あれだけ入っていたら、客もよろこぶべ」 彼らに悪気はありませんでした。
私は、説明しました。
「夜に来たお客様は、よろこぶかもしれません。でも朝 このお弁当を買ったお客さんは、このことを知ったら怒るでしょうね」
そんなやりとりを何度もしながら、次第にコンビニらしい商品になっていきました。工場長、ありがとうございました。
(2)本社、札幌で決められたお弁当や総菜の仕様を製造社を決定
仕様書通りの商品ができるか確認します。
(3)物流の確認
毎月のように新店がオープンします。その都度、各お店のダイヤグラムを確認し、納品時間が大きく変わらないように配送センターと打合せしました。
札幌から帯広へ届くデザートや牛乳などの物流確認も仕事です。
ある年の真冬、日勝峠が大雪で配送トラックが道路わきにすべり落ちたことがありました。
まだ、携帯電話が普及していない時代です。事故から4時間後、午前6時頃 私は連絡を受けました。
私達は、お店の方々へ電話連絡しました。
お店のみなさまからお叱りよりも「ドライバーは無事なのか?」と開口一番に聞かれて、涙が出たことを今も忘れることができません。
心優しいお言葉、ありがとうございました。
【素敵な道東】
<当時のおいしいお店>
・三冠王 函館 赤ちょうちん運営と聞いていました。シャリ玉は、すしロボットで作っていましたがタネが大きくて美味しかったです。
価格も安く、大満足でした。(残念ですが、閉店しました)
・ぱんちょう 帯広駅前の豚丼専門店です。炭で焼いた豚肉と独特のタレが美味しい。
・有楽町 西帯広駅前にあります。生ラムジンギスカンが食べられるお店。また、食べに行きたい味です。
・ウエスタン 焼肉バイキング、お寿司やデザートも食べられて、楽しい焼肉店でした。
帯広では、何から何まで自分で処理しました。私を成長させてくれた街でした。
<忘れられないシーン>
・秋の日勝峠、狩勝峠。緑、オレンジ、赤、黄色・・・言葉にできないほどきれいな紅葉でした。
・びょうたんの瀧。オレンジ色の紅葉、この色が素晴らしくきれいでした。
・根室市北方領土資料館から見た貝殻島。島に住むロシア人が見えました。距離の近さにびっくりしました。
・サロマ湖 神秘的な湖です。1992年頃、直売所のホタテが安くて驚きました。ホタテ10枚を大阪へ送ったら宅配便運賃の方が高かったです。
・摩周湖 霧がかかることで有名ですが、晴れていました。
・阿寒湖 北海道の歴史を感じる湖畔でした。
・然別湖 きれい!他に言葉は、いりません。
帯広、道東、ありがとう!