社長の出張日誌

こちらでは、社長が海外を含めた出張時に出会った風景やエピソードをご紹介します。

のんびり更新して参りますので、どうぞご期待ください。

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Vol.1【香港・中国へ】

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私が香港・中国へ初めて渡ったのは、2004年です。

ある社長達に誘われるがまま、1月に香港のTOY&GAME SHOW(展示会)へ行きました。

香港は、1995年にイギリスから中国へ返還されてから9年経っていました。

この時の香港には、まだ燃えよドラゴンなどでおなじみのブルース・リー的な懐かしさがありました。

道路まで張り出した大きな電飾看板。白いシャツから汗を吹き出しながら働く人々。

九龍公園で太極拳を楽しむご老人方。私には、懐かしい世界でした。

 

この時、私が困ったのは、言葉の問題。

香港は、英語でコミュニケーションが取れます。

しかし、私は、英会話が得意ではなかった。

カタコトの英語・・・英単語でやり取りしたことを思い出します。

 

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2004年の4月、私は、香港のギフトショーへ行きました。

この頃、香港 九龍の街は、いろんなところで工事が行われていました。

ひとつは、ビルの改築です。

ジャッキー・チェンの映画でもよく出てくる竹の足場をいたる所で見ました。

もうひとつは、地下鉄の路線延長工事や地下歩道の工事でした。

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やがて2010年頃から九龍 尖沙咀(チムサチョイ)は、きれいで便利な街に変わっていきました。

 

私は、香港ギフトショーの合間に電車で広東省深セン市へ行って来ました。

2003年に知り合った中国の友達が深セン市に住んでいました。

タクシーでホンハム駅へ行き、KCR(今は、MTR東鉄線)で羅湖駅で下車しました。

ここで生まれて初めて中華人民共和国の地を踏みました。

日本人は、中国へ入国するのにビザの取得が必要ありません。

しかし、中国のイミグレーションは、笑顔が無い重い雰囲気でした。

私は、とても緊張しました。

まだ、スマホで国際電話を頻繁にかけられる環境ではありませんでしたが私は、深セン市の友達とスムースに会うことができました。

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中国側の羅湖駅前は、大々的な工事中でした。

道路も工事中だったため、クルマは駅まで入って来られませんでした。

私達は、工事の現場を迂回し、駅から約1km先に駐車していたクルマに乗り込みました。

 

私は、友達に中国の工場を案内してもらいました。

工場には、地方から出てきた工員さんが多く、住み込みで働いていました。

彼らの月給は、日本円で4000円~8000円。

彼らの服装は、衛生的ではありませんでした。彼らが支給される食事も豪華ではありませんでした。

(今の中国の工場は、かなり近代的に変貌しています)

私が子どもの頃の日本を思い出しました。

日本のトイレは、汲み取り式が大半でした。肉屋のコロッケやカレーライスがごちそうでした。

やがて日本の大都市には高層ビルが建ち始め、空はスモッグで覆われる。

中国は、この道を歩き始めたことを知りました。

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2004年9月、私は、100円玩具の買い付けのためにある玩具メーカーの社長と広東省汕頭市へ行くことになります。

今でこそ広東省汕頭市へは、新幹線(中国鉄路高速:和諧号)で楽に行くことができます。

当時は、新幹線がありませんでした。私達は、深セン市からバスで汕頭市を目指しました。

 

汕頭市へは、約4時間かかります。夕方乗ったバスの車窓から大地に沈み夕陽を見ました。

私は、日本で海に沈む夕陽を見ることはあります。大地に夕陽が沈むのは、この時が初めての経験でした。

どこまでも続く大陸の大地に夕陽が沈む姿を見た時、「こんなに広い世界があるんだぁ!今まで何をくよくよ悩んでいたのか?」と思いました。

 

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初めて行った汕頭市のホテルで私は、パスポートを無くしかけました。頭の中は、真っ白。

結局、私のパスポートは、ホテルのフロントにありました。日本のホテルのように宿泊客に紛失物を連絡してくることはありません。

すべてが自己責任の世界です。それ以来、私はウェストポートで財布やパスポートを管理することにしました。

いつも決まったところに必要なモノを入れておく管理方法にしました。

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翌日、玩具メーカーの社長と玩具商社や工場を見に行きました。

玩具メーカーの社長は、ギャンブルもやらなければ、お酒も飲まないストイックなタイプ。

ところが玩具の話となるとサンプルで子どものように遊び始めました。遊んで製品の良否を判断しているのです。

まさしくプロフェッショナル!私に欠けているところを垣間見ました。

この玩具メーカーの社長とは、今でもお取引があります。

 

私は、その翌日に汕頭市を後にして、ひとり バスで深セン市へ向かいました。

バスに乗る時、玩具メーカーの社長が「ほんま、帰りはりますの?」と言いました。

私には、帰る理由がありました。私は、東京-香港の安い航空チケットを買っていました。

このチケットは、乗る飛行機が決まっています。乗る日の便を変えることができなかったのです。

そんなわけで、私は 汕頭市 → 深セン市(羅湖駅) →イミグレーション→ 羅湖駅(香港) → 尖沙咀(チムサチョイ)へ戻りました。

私は、まったくトラブルが無く、翌日 日本へ着きました。

 

2004年、私には忘れられない年です。

 

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Vol.2【2005年 香港からマカオへ】

 

2005年7月 私は、ある小売りチェーンのバイヤーを香港の展示会へアテンドしました。

その時は、台湾出身のメーカーさん、電気小物のメーカーさんと一緒でした。

台湾出身のメーカーさんは、その後 日本人に帰化します。

台湾の人は、日本が好きですね。

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我々は、展示会場を視察し、夕食後、台湾出身のメーカーさんが「今からマカオへ行きませんか?」と言いました。

午後10時になろうかという時刻です。

「こんな時間にマカオへ行く船があるの?」みんなは、彼に聞きました。

「マカオまでの船は、24時間動いているよ!」

驚いたことにその話は、事実でした。

 

深夜、香港からマカオまでの船旅は、危険なこともあるのでおすすめしません。

私たちは、意を決して、深夜にマカオへ旅立ちました。

尖沙咀から上環フェリーターミナルへ着いたのが午後11時。

ここからマカオまで1時間ジェットフェリーに乗りました。1時間後、船からマカオが見えました。マカオは、明るく光り輝いていました。

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マカオのフェリーターミナルからセナド広場までタクシーに乗りました。

私達は、有名な観光地 聖ポール天主堂跡が見たかったのです。

ところがタクシードライバーに英語が通じません。マカオは、ポルトガル領だったので約100年 ポルトガル語が公用語でした。

当時は、英語を話す人が少なかったのです。

タクシーはあるホテルに停まりました。ドライバーは、ホテルのドアボーイに通訳を頼んでいました。

実は、ドアボーイも英語が得意ではありませんでした。

何とか、タクシーでセナド広場にたどり着き、我々は、誰もいない聖ポール天主堂跡を観光しました。

当時のデジカメは、夜の写真に適していません。フラッシュを焚くと人しか映りませんが良い思い出になりました。

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我々は、カジノで軽くスロットマシンに挑戦した後、午前3時のジェットフェリーで香港へ戻りました。

残念ながら誰もスロットマシンで良い思いはできませんでした。