社長の子育て日記

こちらでは(株)クニヨシの社長が、子育て時代を振り返り、お子様の成長を見守ってきたエピソードをご紹介します。

障害があるお子様の子育てのご参考になれば幸いです。【社長談】

 ※こちらのコーナーでの掲載画像はすべてイメージです。


【第1話】
子どもが発達障害で悩んでいる方も多いかと存じます。
私の長男は、自閉症です。

<私が考える自閉症とは>
自閉症とは、人とのコミュニケーションができず、自分本位の興味・行動に強いこだわりがある人と思います。
思った通りにならないと、腕を噛むなどの自傷行為を行ったり、大声を出したりします。
電車などの交通機関で車内放送をマネする人もいます。
不思議な人たちなのですが、コミュニケーションが取れるようようになると楽しいと思える人達かもしれません。

ご参考になるかわかりませんが、私たちの経験を記します。

【市役所に相談してみた】
長男は、1993年(平成5年)に転勤先の帯広で生まれました。
1995年3月 私の転勤で千葉県へ引っ越しました。
長男は、2歳になっても全くしゃべりませんでした。
この頃、二男が生まれて、忙しかったこともあり、なかなかこのことに気づいてあげられませんでした。

翌年、家内が市役所に長男のことを相談しました。
私たちは、市役所(障害福祉課)の職員に長男の現状について説明しました。
保育所で多くのお子さんといっしょにいれば、話をするかも知れないと言われました。
家内は、長男を保育所へ入所させるために仕事を探しました。
家内の仕事が決まり、長男と二男は、保育所へ行きました。

私は、家内と分担で保育所への送迎をしました。(自転車)
毎週1日 休みを取りました。
今でいうところの「イクメン」ですね。

余談ですが、フィリピン出身のお母様方、自転車に3人の子どもを乗せて保育所へ。
まだ電動アシストではない自転車に乗り、笑顔で生き生きとされていました。
くよくよしない彼女たちの生き方がとても素敵に思えました。

長男は、みんなとお遊戯をしたり、積み木やパズルで遊びました。
言葉を話すことはありませんでしたが楽しい時間になったと思います。

この後、長男は、自閉症と診断され、療育手帳を受け取ることになりました。
小学校への入学は、教育委員会の方と何度も協議しました。
普通学級がよいか、特別学級がよいか、先生の指導方針は、どうかなど。
納得して、長男を小学校へ通わせることができました。
役所へ相談してよかったと考えています。
ありがとうございました。

【プロに相談してみた】
平成10年(1998年)頃、
家内が誰から聞いてきたのか、自閉症の診察をしてくれる臨床心理士さん(女性)を知りました。
予約してから3ケ月後に千葉県千葉市の病院へ行き、長男を臨床心理士さんに診せました。

「この子は、将来コミュニケーションが取れるでしょうね」との診断でした。
私は、「話せるのでしょうか」と聞きました。
「普通の人のようには、無理かもしれません。でもコミュニケーションは取れるはずです」
私たちは、その言葉を信じることにしました、いつか長男と意思疎通できることを楽しみに。
希望の光をいただき、ありがとうございました。

時にプロへ相談してみることも重要かも知れません。
臨床心理士さんのおかげで「絶対、いつか長男と意思疎通する」と心を決めることができたのです。

【脱走=GPS位置検索機を持たせる】
3歳頃から長男は、家を飛び出して、ひとり電車に乗って遠方まで行くようになりました。
我々が油断しているとドアを開けて、家を出ていきます。
夕方に出ることが多かったです。
残業が多かった私を迎えに行ったのではないかと思われていましたが好きな電車に乗りたかったのだと思います。

深夜1時頃、ふらふらと裸足で歩いている三歳児の長男が警察署で保護され、迎えに行きました。
どうやって、電車に乗ったのだろうか、何駅で降りたのだろうか、今も謎です。
何度、脱走されたかわかりません。保護されたという電話が入るまで心配で不安でたまりませんでした。

脱走は、小学生6年まで続きました。
午前中に小学校から脱走し、松戸駅で駅員さんに保護され、授業の受け持ちが無い校長先生が長男を迎えに行ってくれました。
小学校高学年で身長が160cmを超えており、無賃乗車ができなくなりました。

この対策として、携帯会社のGPS位置検索機を長男に持たせました。
今は、スマホにある機能です。当時は、専用の機器でサービスされていました。
まだガラケイの時代なので、位置確認は、パソコンで行いました。
精度は500m以内でしたが、どのあたりにいるかがわかるだけでもありがたかったのです。
(我が家的には、とても便利でした、これでかなり助けられたのです)

今では、スマホを持たせれば位置の特定ができます。
当時は、安価な位置特定サービスが少なかったのです。

【療育センター】
小学校に入る前に家内が長男を民間の療育センターへ通わせました。
・さくらんぼ教室 毎週土曜日(当時 千葉県市川市)
・こばと療育センター 毎週木曜日(当時 千葉県千葉市)
☆これらの療育センターが今も存在するか、わかりません。

療育センターでは、主に文字を習いました。
長男は、療育センターで拙いながらも文章を書くようになりました。
文字が好きなのかもしれません、漢字も覚えていきました。
文字を覚えたことがしゃべることにつながっていきました。
療育センターのみなさま、ありがとうございました。

余談ですが、こばと療育センターの帰り、時々、長男とはぐれました。
この時もGPS位置検索機が役に立ちました。

長男との時間は、私にとって とても貴重な体験です。
私達をサポートしていただいた多くの方々に心から感謝し、御礼申し上げます。


【第2話】

【おでかけ】
長男が4歳頃から毎週末出かけました。
サリバン先生がヘレンケラーにモノに触れさせて言葉を教えた逸話がきっかけでした。

散歩をしながら「クルマ」「ビルディング」「電車」「信号」などと、唱え、教えました。
長男は、ひとりで家から脱走するほど外の世界に興味がありました。
この試みは、効果があったように思います。

療育センターで文字を習い、小学校に入学してからは、週末の予定を紙に書きました。
これを「計画の紙」と呼びました。

最初は、家の近くを散歩していました。
長男が小学生の頃、船橋市、鎌ヶ谷市、松戸市、市川市 約30kmを歩いたことがあります。
午前9時頃に家を出て、帰宅したのは、午後6時過ぎでした。
昼食のファミレスで長男にメニューを見せて、どれ食べると聞いたところ、「牛すき焼き御膳」を指しました。
私は、「ぎゅうすきやきごぜん?」と聞くと、長男は、「ぎゅうすきやきごぜん」と答えました。
こんな風に少しづつ、長男は、言葉をしゃべるようになりました。

小学校高学年の頃には、電車でお出かけすることも多くなりました。
成田山新勝寺や高幡不動尊、高尾山、豪徳寺など、私たちも楽しめるお出かけもありました。
出不精な私は、お出かけの機会をくれた長男に感謝しています。

計画の紙を書いて、お出かけをするルーティンは、長男28歳まで 約24年間続きました。
楽しかった、ありがとう。

【言葉を理解していない時に体罰をしない方がよい】
長男が小学校の高学年の頃、学校が終ると放課後ルームへ行きました。
放課後ルームは、学校の校庭に建てられていました。
校内なので、教諭が長男を放課後ルームへ連れて行ってくれました。

この頃、長男は、食器を投げて割ったり、壁をたたいて壊したりしました。
口で言ってもダメなのかなぁ。私は、その都度、軽くほほをたたき、ダメなことを教えたつもりでした。

長男がある日の放課後ルームでお友だちを投げ飛ばす事件がありました。
自分が遊びたいおもちゃがほしかったらしいのです。
なんで・・・仮説ですが 嫌なことがあれば、暴力をふるっても良いと解釈したのではと、思いました。
(わたしのせいかなぁ)

それ以降、体罰は、やめました。

【小学6年生の春に足首を骨折】
今年で卒業という年の春に、長男が桜の木から落ちで足首を骨折しました。
長男は、救急車で病院へ搬送。
5月~8月までの3ケ月、入院しました。

この頃、長男は、食べ物を言うことができるようになりました。
看病に来たおじいちゃんに「アイスクリーム」などと。
寝たきりで太り始めたので「アイスクリームは、ダメだよ」と言われると、「ダメ、ダメ」とオウム返ししました。
「ダメ」の意味を少し、理解できました。
看護師さんとのコミュニケーション・・・「おくすり」「注射」「ごはん」など、しゃべる単語が増えました。

私と家内は、交代で泊まり込みました。
長男の世話でほとんど眠れず、血圧が上がりました。

この2年後、中学生の時にも長男が足を骨折しました。
この時は、医師に家で治せるように頼みました。
(病院は、とても疲れたので)
ベッド、車椅子をレンタルして、家で骨折を治しました。

これは、あまりよろしくない例ですが、いろんな方とお話しできるとコミュニケーション力が上がるのだと感じました。